私の読書日記

ゆる~い読書日記です~To the Happy Few~

「梨泰院クラス」とニーチェ

ネットフリックスで「梨泰院クラス」を観ていたら、印象的なセリフが出てきました。

 

「何度でもいい、むごい人生よ、もう一度。」

 

第15話でチョ・イソが読んでいた『ツァラトゥストラはかく語り』に出てくる言葉です。

 

非常に気になるので調べてみました。

おそらく、ツァラトゥストラの第4部の以下の文章からでしょう。

「地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。『これが—―—生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし!それならもう一度』と。」(『ツァラトゥストラ手塚富雄訳、中公文庫p.516)。訳者は、「現在の自分の生を積極的に肯定するのである。永劫回帰思想の最も重大な意志的側面。」と解説しています。

 

死の淵をさまようパク・セロイの回想の中で、チョ・イソがこの言葉を読んでしんみりと嘆息するのですが、とても感動的なシーンです。それと同時に、梨泰院クラス自体がニーチェ思想をそのまま表したものだったんだと気が付いてとても驚きました。パク・セロイはニーチェ思想でいうところの「超人」を体現するものだったんですね。

 

セロイを動かしているものは、長家に対するルサンチマンです。その証拠に、グウォンを起訴することができても、セロイの長家を倒す目標はゆるぎませんでした。

セロイの敵であることを知りつつも長家で働き続けるオ・スアは、残念ながらニーチェ思想でいうところの「奴隷思想」を体現する人物で、チャン・デヒ会長の口を借りてその奴隷根性を痛烈に批判されてしまいます。

「ローマ時代のキリスト教徒がそうだったように、弱者は、力ではかなわない権力者や富者を憎み、彼らに復讐しようとする。しかし、現実には弱者であるキリスト教徒にそんな力はありません。そこで、強者がもつ自己肯定や力強さ、気高さといった価値観を否定し、利他的な気持ちや弱者への思いやりといった価値を「善」とするようになった。さらに、人々の罪を背負って十字架にかけられたイエスへの負い目から、両親の疚しさを感じ、禁欲的な道徳を生み出していったというのがニーチェの診断です。」(斎藤哲也『試験に出る哲学』NHK出版新書、p.201)

 

まさにオ・スアそのものですね。

 

一方で、「超人」とはどういった存在か。

ニーチェはその具体像をツァラトゥストラに求め、ラクダの忍耐心、権威の象徴である竜をかみ砕く獅子の強さ、小児の純粋さと創造性をもつものであるとした。超人はまた「永劫回帰」や「運命愛」の概念とも結びついている。苦悩に満ち、同じことが繰り返される無意味な人生にあたって、「人生とはそういうものか、よしそれならばもう一度」と叫んで、人生のあるがままの姿を肯定して愛して、悲惨さを乗り越えていく人間も超人の姿である。」(清水書院「倫理資料集」p.227)

 

まさにパク・セロイではないでしょうか。

私は最終話をまだみてないので、パク・セロイがどのようなラストを迎えるのか。とても楽しみです。それと同時に、「梨泰院クラス」がニーチェ思想をずーっと表していたドラマだということに気づかされてとても驚きました。キリスト教徒の多い韓国のドラマというのもなかなか象徴的ではないかと思います。将来的に、このドラマがニーチェ思想の学習テキストになるのではないのでしょうか。それくらい懐の深いドラマだと感じました。