ユスクキュル『生物から見た世界』を読んで
ユスクキュル著『生物から見た世界』(岩波文庫)を読んだ。生物がこの世界をどのように認識しているのかについて書かれた認識論である。
ユスクキュルによると、生物はそれぞれの主体によってそれぞれの世界の認識の仕方があり、それを「環世界」(Umwelt)と名付ける。例えば、目の見えないマダニにとってこの世界は匂いと温度しか意味を持ちえず、またミツバチにとってつぼみの状態の花は存在せず開花した状態しか意味を持たない。カタツムリの環世界では1秒間に4回しか振動しない棒は静止した棒と同一であり、コクマルガラスの環世界には死んだ昆虫の概念は存在しない。このように、それぞれの主体には主観的な世界だけが存在するのであり、完全に客観的な環境など存在しないのである。
人間界でも同じである。にもかかわらず、現代は人間の認識を万国共通のものとする傾向がある。大変危険なことである。訳者(日高敏隆)はあとがきでこう述べる。
「人々が『良い環境』というとき、それはじつは『良い環世界』のことを意味している。環世界である以上、それは主体なしには存在しえない。それがいかなる主体にとっての環世界なのか、それがつねに問題なのである。」
真理だと思う。
丸山真男著『政治の世界 他十編』(岩波文庫)
岩波文庫から出ている丸山真男の『政治の世界 他十編』を読みました。
この中の「政治的無関心」という項目に興味があったからです。
解題を見ると、元々は平凡社の『政治学事典』の執筆項目として1954年に書かれたものであるということが分かります。一読して、およそ70年前に書かれたものであるにもかかわらず現代にも十分に通用する内容であることに大変驚きました。逆に言うと、政治的無関心というものは理論によって一般化できるものなのかもしれません。
序盤は、ラスウェルにならって政治的無関心(アパシー)を「脱政治的」「無政治的」「反政治的」の3つに類型化し、3つを総称して「非政治的」とします。また、今度はリースマンにならって、その「非政治的」態度を、「伝統型」と「現代型」に分類します。ここまでは政治学の学説の紹介になっています。
①政治機構の複雑化とその規模の国際的拡大
②現代社会の官僚化・合理化傾向
そして③マスコミの代表する消費文化の役割
の3つを上げます。この③についての記述が、まるで今現在の社会情勢を描写しているかのようで読みながら大変に驚いてしまいました。少し長くなりますが一部を引用します。
「現代の商業ジャーナリズムやスポーツ、映画、演劇などの大衆娯楽はまた、政治的無関心を蔓延させるうえに巨大な役割を演じている。そうした機能は政治的な問題や事件を「非政治化」して大衆に伝達することによっても果たされるし、また大衆の興味と関心を直接的には非政治的な対象に集中させることによってもおこなわれる。たとえば前者についていえば、マス・コミュや大衆雑誌は一般に事件や問題を歴史的社会的文脈から切り離して事柄の本質と関係のないエピソードや附随現象を大きく扱い(trivialization)、また相関連する事象について綜合的な認識や判断を与えるかわりにこれを細切れのニュース・フラッシュや短評の形式で断片化し(fragmentalization)、あるいは政治家の紹介や描写をする場合にも、その政治的業績や政治的資質ではなしに、朝食の献立とは何々とか、行きつけの待合やナイト・クラブはどこそこといった私生活面を好んでとり上げる(privatization)。」(p.334)
まるで今のマスメディア論みたいです。おそらく、この文章を出典なしに載せてもだれも70年前の文章だとは思わないでしょう。こうしたマスコミの役割を通じて、私たちは政治的無関心へと引き寄せられてしまうと丸山は批判します。
最後は、政治的無関心(アパシー)の政治的効果の記述。丸山は、アパシーは政治過程の外にとどまっている場合でもそれ自体政治的効果をもつものだとして、このように述べます。
「アパシーはなるほど支配的な象徴にも対抗的な象徴にも積極的には結びつかないが、その現実的効果は一般的に支配層により有利である。現在の体制は「消極的」忠誠によっても惰性の力で相当の程度まで維持されるが、それを変革しようとする運動は自己の側に「積極的」に大衆を動員しないかぎり進展しないからである。積極的にリベラルでも保守的でもないということは政治的には保守的に作用せざるをえない。とくに日本のように大衆の合意(consent)よりは随順(conformity)が伝統的に天皇制支配の精神的基盤をなしてきたところではそうである。いわゆる教育や学問の政治的中立の主張が、現実には対抗首長への結びつきの否定だけを一方的に強調する結果になりやすいのもこのことと密接に関係している。」(p.336)
この項だけでも十分に読む価値のある本だと思いました。
『アフリカのことわざ』(東邦出版)
アフリカのことわざがツイッターで(少しだけ)話題になってた(気がする)ので、アフリカのことわざ研究会『アフリカのことわざ』(東邦出版)を再読しました。この本は、ことわざが挿絵で上手に表現されていて、とてもおもしろくてためになります。(しかもその絵がことわざからくるイメージにピッタリで時々辛辣でくすっと笑えちゃう)
以下、私の好きなことわざをいくつか紹介します。
・「幸福の欠点は終わりがあること」
・「人生には季節がある」
”季節”で例えるところが含羞があります。
・「あなたが退出したとたん、それまでの会話は変わります」
思わずクスっと笑っちゃいます。私の一番好きなことわざです。
・「ラクダは重い荷物には耐えられるが、縛り方の悪いロープには耐えられない」
大変な仕事には耐えられるけど、納得のいかない理不尽な指示には耐えられないという意味です。ラクダで例えるところがいかにもアフリカらしい。
・「うまく踊れない人は言うでしょう、「ドラムが悪い」と」
そう言わないように気を付けたいものです。
・「やかましくさえずる鳥はまったく巣作りをしません」
手を動かさないで口を動かす人のことを指します。
・「道に迷うことは道を知ることである」
心にとどめておきたいことわざです。
・「ヘビの長さはその死後に測ることができる」
人の価値はその人が去った後にわかるというもの。まったくですが、生前に評価されないというのも少しさみしいかな。
・「人を憎む者は自分が憎いのだ」
本当にその通り。特に近親憎悪というものは。
・「斧は忘れる。木は忘れない」
刺さります(斧とかけたわけじゃないけど。)2番目に好きなことわざです。
・「ゾウたちが戦えば苦しむのは草たち」
被害に遭うのはいつも弱い者たちです。
・「愚者は喋り、賢者は聞く」
賢者の口数多いイメージはないですものね。
最後に、まるでプーさんのためにあるようなことわざをひとつ。
「ひとりでハチミツを全部食べる者は必ずお腹を痛めます」
スタンリーキューブリック『アイズ・ワイド・シャット』
ネットフリックスでスタンリーキューブリック監督の『アイズ・ワイド・シャット』を視聴。これで見るのは2回目。
気づいた点。
①エリックが目隠しをしたまま夜会から連れ出されるシーンにながれているBGMは、フランク・シナトラの「ストレンジャー・イン・ザ・ナイト」
②カフェに入ったビルが読んでいた新聞には「Lucky to be alive」の文字が。
③売春婦に支払ったお金(150ドル)よりも夜会に行くためのお金(200ドルプラスアルファ)の方が大きいこと。「レインボー・コスチューム」の店主相手に値段交渉をした際、最初に100ドルを提示したら店主がノーと言ったシーンが印象的。
夜会開始時のあの儀式はなんかフリーメイソンぽいかと思ったけどググったらやっぱりフリーメイソンと関係あるらしかった。また、映画全体のテーマはフロイト理論とも関係があるらしい。
考察に走らなくてもじゅうぶん面白い映画だと思う。
「梨泰院クラス」とニーチェ
ネットフリックスで「梨泰院クラス」を観ていたら、印象的なセリフが出てきました。
「何度でもいい、むごい人生よ、もう一度。」
第15話でチョ・イソが読んでいた『ツァラトゥストラはかく語り』に出てくる言葉です。
非常に気になるので調べてみました。
おそらく、ツァラトゥストラの第4部の以下の文章からでしょう。
「地上に生きることは、かいのあることだ。ツァラトゥストラと共にした一日、一つの祭りが、わたしに地を愛することを教えたのだ。『これが—―—生だったのか』わたしは死に向かって言おう。『よし!それならもう一度』と。」(『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳、中公文庫p.516)。訳者は、「現在の自分の生を積極的に肯定するのである。永劫回帰思想の最も重大な意志的側面。」と解説しています。
死の淵をさまようパク・セロイの回想の中で、チョ・イソがこの言葉を読んでしんみりと嘆息するのですが、とても感動的なシーンです。それと同時に、梨泰院クラス自体がニーチェ思想をそのまま表したものだったんだと気が付いてとても驚きました。パク・セロイはニーチェ思想でいうところの「超人」を体現するものだったんですね。
セロイを動かしているものは、長家に対するルサンチマンです。その証拠に、グウォンを起訴することができても、セロイの長家を倒す目標はゆるぎませんでした。
セロイの敵であることを知りつつも長家で働き続けるオ・スアは、残念ながらニーチェ思想でいうところの「奴隷思想」を体現する人物で、チャン・デヒ会長の口を借りてその奴隷根性を痛烈に批判されてしまいます。
「ローマ時代のキリスト教徒がそうだったように、弱者は、力ではかなわない権力者や富者を憎み、彼らに復讐しようとする。しかし、現実には弱者であるキリスト教徒にそんな力はありません。そこで、強者がもつ自己肯定や力強さ、気高さといった価値観を否定し、利他的な気持ちや弱者への思いやりといった価値を「善」とするようになった。さらに、人々の罪を背負って十字架にかけられたイエスへの負い目から、両親の疚しさを感じ、禁欲的な道徳を生み出していったというのがニーチェの診断です。」(斎藤哲也『試験に出る哲学』NHK出版新書、p.201)
まさにオ・スアそのものですね。
一方で、「超人」とはどういった存在か。
「ニーチェはその具体像をツァラトゥストラに求め、ラクダの忍耐心、権威の象徴である竜をかみ砕く獅子の強さ、小児の純粋さと創造性をもつものであるとした。超人はまた「永劫回帰」や「運命愛」の概念とも結びついている。苦悩に満ち、同じことが繰り返される無意味な人生にあたって、「人生とはそういうものか、よしそれならばもう一度」と叫んで、人生のあるがままの姿を肯定して愛して、悲惨さを乗り越えていく人間も超人の姿である。」(清水書院「倫理資料集」p.227)
まさにパク・セロイではないでしょうか。
私は最終話をまだみてないので、パク・セロイがどのようなラストを迎えるのか。とても楽しみです。それと同時に、「梨泰院クラス」がニーチェ思想をずーっと表していたドラマだということに気づかされてとても驚きました。キリスト教徒の多い韓国のドラマというのもなかなか象徴的ではないかと思います。将来的に、このドラマがニーチェ思想の学習テキストになるのではないのでしょうか。それくらい懐の深いドラマだと感じました。